「想定外」という言葉が無条件に批判の対象になってしまう今日この頃ですが、この風潮には違和感を禁じ得ません。
いかなる設備の設計も、防災計画の立案も、ある条件を想定してその範囲で要求を満たすようにしています。想定を超える事態では要求を満たせないのは当たり前です。したがって、問われるべきは想定の妥当性ということになりますが、どこまで想定するかというのはそれを実現するコストと想定を超えた場合のリスクのバランスで判断されます。
こう言うと、経済性のために安全を犠牲にするのはケシカラン、といった反応をする方が必ずおられますが、社会資本整備においては完全に的外れです。社会資本整備には莫大な費用と長い時間が掛かるのが普通で、その費用の少なくとも一部は最終的に国民が負担しています。割り当てられた枠を超えてリソース(直接的には予算)を投入するには、他のどこかを犠牲にする必要があります。例えば社会保障を犠牲にした場合、それが国民の「安全」に直接打撃を与えることは簡単に想像できると思いますが、定量的な評価は難しい(一応手法はある)ものの、純粋に民間部門の業績悪化といった「犠牲」であっても、規模が大きくなれば社会全体に大きな影響があり、その影響は当然国民の福祉、つまり「安全」にも及びます。より大規模な災害を「想定できた」ということと「想定するべきだった」ということは完全に別のことです。
例えば、大雨による河川の大規模氾濫は長期的な予測が困難な自然現象であり、一旦起これば甚大な人的・経済的被害をもたらすことが経験とともに知られています。そのため、「100年に1度」の規模の大雨を「想定」し、それに耐えうる設備を整備することが決められています。多くの費用が掛かるため数十年掛けて整備する計画ですが、実績は計画の半分程度しか進捗していません。計画通り進めるには税金を増やすか、他の保障を削るか、どこかの民間部門に「泣いて」もらうかしかありませんが、いずれも弊害の方が大きいと(有権者が)判断し、結果的により緊急性が低いと判断されたものは遅れていくしかありません。政府が強力な強制力を持つ政治体制であれば強引に計画を進めることはできるでしょうが、その結果は洪水による被害の期待値を上回る人的・経済的被害がより確定的にもたらされることになるでしょう。
国民(有権者)や市場は常に合理的判断で動くわけではないので、特に長期的な計画についてはある程度の道しるべが必要であり、そこは政治の責任です。長期計画は定期的に、あるいは新たな知見が明らかになれば見直し、国民はそれをチェックすべきですが、十分な判断材料が揃っておらず冷静な判断ができない状態で安易に方針を変更することには慎重であるべきです。
今回の大震災やそれによる津波は想定を超える規模でしたが、どれだけの規模を想定したとしてもそれを超える事象が発生する可能性はゼロにはならず、想定を超えたこと(より大きな規模を想定しなかったこと)自体は問題ではありません。今後の防災計画では今回の経験を参考にすべきですが、今後全ての社会資本を同じ規模の地震、津波に耐えられるようにするべきだということにはなりません。繰り返しになりますが、強権的にやってできなくはないでしょうがそれは国民の安全には寄与しません。(高い確率で逆方向に寄与します)
原子力発電の安全設計については、想定を超える事態においては設備の一部が破損し、少量の放射性物質が環境中に漏洩することを認めています。それでも、放射性物質の多重防護が破れて環境中に大量の放射性物質が放出される可能性は十分に低く抑えることが求められ、IAEAの基準では炉心損傷の確率を1炉、1年当たり10^-6(100万分の1)以下とすることとしています。確率の計算は確率論的安全性解析(PSA)を用い、過酷事故に至るあらゆるシナリオを想定してそれぞれの複合事象の確率を全て積算して求めます。今回の災害では、想定していなかったシナリオで事故に至りました。このことは、地震、津波の規模が想定外だったことよりも遙かに大きな問題です。人間が事前に想像できることには限りがあり、想像もしていなかったシナリオが発生する可能性は今後も否定できません。これはPSAの限界とも言え、10^-6という確率をそのまま信じることはできないでしょう。
人類が原子力発電を初めてまだ半世紀程度ですが、何度かの事故や数多くの事故には至らなかった事象の経験を蓄積し、原子力発電の安全性は飛躍的に高まってきました。今回の災害や福島第一発電所の事故に至ったシナリオを今後の原子力安全に活かす取り組みは既に始まっており、今後の原子力はさらに安全になるでしょう。2万人を超える犠牲者を出した巨大災害に巻き込まれ、それでも直接の被害者を今のところ軽症の3名しか出していないのは評価してもよいでしょう。
人間が直感として感じる「安心」と、確率・統計論で数学的に算出できる「安全」にはしばしば大きなずれがあります。自動車と飛行機を比べると、事故による犠牲者の絶対数でも、移動距離当たりの犠牲者数でも自動車の方が圧倒的に多く、飛行機が遙かに「安全」であることはよく知られています。それでもなお、自動車は平気なのに飛行機に乗ることを「不安」に感じる人が多いというのは分かりやすい例でしょう。
原子力発電による死者は、チェルノブイリの事故による死者を国連レポートの4000人とした場合発電量1TWh(テラワット時)あたり0.04人です。100倍の40万人だとしても4人/TWhです。これは天然ガス発電による死者数と同程度です。石油火力では36人/TWh、石炭火力は世界平均で161人/TWh、中国に限れば278人/TWhの死者を出しています。主に大気汚染による影響だそうです。水力発電による死者は0.1人/TWh程度ですが、中国の板橋ダム決壊事故(17,000人死亡)の影響を加味すると1.4人/TWhになります。
発電量当たりの死者数だけで安全性を評価できるわけではありませんが、直感による「不安」や「恐怖」だけを根拠に安易に原子力発電からの脱却を図った場合、その結果が必ずしも現在および将来の国民の「安全」には繋がらないことはきちんと理解しておくべきだと考えます。