モザンビーク貨幣事情

投稿者: | 2012年6月15日

たろ父が若い頃働いていたことのあるモザンビークは、アフリカ南東部にある最貧国の一つです。北部Cabo Delgado(カーボ・デルガード)州沖合のガス田、ロヴマ鉱区の埋蔵量が世界最大規模となりそうで、今後は外資も入って開発も進むのでしょう。このガス田には三井物産も参画しています。
たろ父が住んでいた頃はエビや穀類が主要な輸出品でした。Cabo Delgadoの南隣のNiassa(ニアサ)州に住んでいたのですが、首都のMaputo(マプート)や近隣のアフリカ諸国の大都市に比べると、州都ですら手に入るモノは限られ、郊外ではほぼ自給自足のような生活でした。
通貨はmetical(メティカール)で、2006年に1/1000のデノミを実施したらしく、現在は1メティカールが0.3円程度のレートのようです。1997年当時はざっとその1/1000の価値しかありませんでした。実質的に1000メティカールが最小単位となっていて、ポルトガル語で1000を表すmil(ミル)を通貨単位のように使って、例えば10,000メティカールなら10ミル、という言い方を我々も、現地の人達もしていました。たろ父のチームはヨーロッパを中心に多国籍のごちゃ混ぜ集団だったので、仲間内の会話は主に英語、仕事など現地の人との会話は公用語のポルトガル語でした。仲間内では、金額が大きい場合もそのままミルを流用して、例えば5百万メティカールなら5000ミル、five thousand milと表現していましたが、ポルトガル語でそのまま言うと「5千千」みたいになってしまうので、注意が必要でした。とは言え、日常の買い物でそんな大きな金額を扱うことはまずありませんでした。
たろ父が働いていたのはNGOですが、現地ではビザの関係で現地法人に雇用される形となっていて、給与も支給されていました。給与はチームで取り纏め、宿舎の賃料や食費などは共通会計で賄い、ポケットマネーとして月500ミルを各人が受け取るというようにしていました。
あやふやな記憶ですが、町でレモネードを飲めば5ミルくらい、アイスクリームは10ミル、安いレストランで一番安い定食が15ミルくらい、ちょっと良さげなレストランで35ミル、中古のTシャツがきれいなので20ミルくらいから、破れた汚いのなら5ミルくらい、中国製の偽ブランドビーチサンダルが25ミルくらい、シャパという乗り合いトラックで20分程度(歩くと2時間くらい)の道のりが10ミル、といった金銭感覚だったと思います。
当時の換算レートがいくらくらいだったか覚えていませんが、一時的な旅行ならともかく、その国で生活する場合は換算していくら、という感覚はあまり役に立ちません。特に途上国の場合は先進国とはモノの価値が違うので、換算した感覚は現地の感覚から乖離してしまいがちです。早く現地の金銭感覚に慣れ、現地通貨で安い、高いが判断できるようになることが外国生活に早く馴染むコツだと思います。
大きな買い物としては、部屋をシェアしていたスーナと共同出資で扇風機を買ったくらいですが、いくらしたか覚えていません。この扇風機が我々の部屋にあったのは何週間かで、隣の部屋のピーターが何かに当たって1週間くらい寝込んでいたときに貸してやったら二度と帰ってきませんでした。
住居費や食費は共同なので、500ミルというポケットマネーは十分以上です。実際に、現地のワーカーのほとんどはそれ以下の収入で家族を養ったりしていました。現金収入だけでは食べていけないので、畑でトウモロコシや野菜を作って自給している人がほとんどでした。
タバコを吸ったり、プロジェクトでは禁止されていた酒を飲んだり、売春婦と遊んだり(当然禁止)するのが好きな人はいくらあっても足りなかったでしょうが、たろ父はどれにも縁がなかったのでお金は貯まる一方でした。国外持出は厳しく制限されていたので、最後に出国する前に全部お土産に使いました。
貨幣としては当時もコインがあったらしいのですが、Niassaでは全く流通しておらず、見たことはありません。最小単位が1ミル紙幣で、お金と言えば紙幣だけでした。財布を持ち歩いている人はおらず、ポケットに紙幣をそのまま突っ込んでいる人がほとんどでした。たろ父も小額紙幣と大きな紙幣を左右のポケットに分けて、裸のまま突っ込んでいました。額の大きな紙幣は人前では決して束で取り出さず、必要なだけ1枚ずつ出すように心がけていました。市場で何か買うときは、予め他の人の買い物を見たりして金額の当たりを付けておき、目標の金額を片方のポケットに入れておきます。値段の表示はないことの方が多く、あったとしても実際の金額は交渉次第です。こちらが外国人である見ればとんでもない額を吹っ掛けてくるのは普通のことです。言い値で買うのは自分が損をするだけでなく、他の外国人のためにも、現地の健全な経済のためにも良くありません。なので、徹底的に交渉します。なかなかまとまらない時は、金額を合わせてあるポケットの中身を全部出して、「今はこれしかない。これで売らないのなら買わない」とやるのです。
そう言えば、任期を終えて出国する前に首都のMaputoで1泊したのですが、シャパに乗って料金を支払うときに周りの人から笑われたことがあります。出した紙幣がボロボロだったのがおかしかったようです。Niassaでは小額紙幣はボロボロであちこちセロテープで補修してあるのが普通でしたが、さすがに首都ではキレイな紙幣が流通していたようです。外国人のくせに小汚い身なりで、ボロボロの紙幣を出すのは珍しかったのでしょう。
あれからもう15年になります。「アフリカの水を飲んだ者は必ずアフリカに戻る」という言葉があるのですが、なかなか機会がないまま時間が経ってしまいました。いつもバナナを売りに来ていた少年も立派な大人になっているのでしょうか。いつになるか分かりませんが、必ずもう一度訪れたいと思います。

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