差別について

投稿者: | 2011年10月31日

わたしと小鳥と鈴と

わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが

飛べる小鳥はわたしのように
地べたを早くは走れない

わたしが体をゆすっても
きれいな音は出ないけれど

あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ

鈴と小鳥と それからわたし
みんな違って みんないい

金子みすずの有名な詩だ。小学校で道徳と絡めて習うことも多いだろう。差別に対する教材としてはメッセージが単純で分かりやすい。要するに、差別とは「みんな違う」ことの否定なのだ。
少なくとも現代の日本で一般的な教育を受けた人なら、差別が良くないことという認識は共有している。小学校の学級会などでは、「それは差別だと思います」という意見が出てしまえばそれを覆すのはほぼ無理だ。大人の世界はもう少し複雑だが、不当な差別は批判の対象となるので、良識ある大人は腹の中で何を考えていても表には出さないものだ。
能力による差別は一般的には不当な差別とはされないが、成熟した社会ではある一部に対する能力が欠けていることをもってその人個人を否定してはいけないことになっている。要求される能力には直接影響の無い障害や性別、年齢などを理由に差別するのは不当な差別に当たる。
真っ当な大人なら不当な差別がいけないことは誰でも知っているはずだが、誤解による差別がまかり通り、社会全体がそれを受け入れてしまうことがある。有名なのはハンセン病だ。発症者の外見的特徴のため昔から差別の対象となっていたが、病原菌が発見され、伝染性が低いことも分かり、治療法が確立した後でも様々な差別が残った。日本で強制隔離政策を踏襲する「らい予防法」が廃止されたのは時代が平成になって8年も経った1996年である。その40年前の1956年にはローマ宣言が採択され、らい患者の救済と社会復帰の推進が謳われていたというのに。
日本に独特のものでもないだろうが、「穢れ」という概念がある。合理的理由のない、不当な差別の背景には多くの場合「穢れ」がある。感染や遺伝のリスクがないことが明らかになった後でもハンセン病患者や原爆の被爆者とその子孫を差別するのは、「よく分からないけど何となく不気味だから避けておこう」という、極めて非合理的な感情、つまり穢れ以外に理由はない。多くの場合、根本的な原因は無知による誤解である。
厄介なのは、無知による差別では差別する側に悪意がなく、差別をしているという意識すらないことだ。それ以外では善良な人々が、ただ無知のために意識することなく誰かを差別し、罪の意識もなく相手の心を深く傷つけている。
タイムリーな実例を示そう。福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染問題である。善意に溢れた多くの人がまさにその善意によって放射能による健康への影響、特に被災地の子供たちの健康を心配し、東京電力や政府を糾弾し、放射能の危険を盛んに強調して拡散している。自分たち「市民」は専門家ではないから、と危険性の評価が妥当かどうか検証することもなく、「安心しろ」と言う専門家に対しては「御用学者」とレッテルを貼り、今も福島に住み続ける子供は高い確率で将来癌になったり、妊娠できなかったり、奇形児が生まれたりするといった根拠のない噂を広めている。
福島県をはじめ、事故の被害が及ぶ地域には多くの子供たちが生活している。こうした無責任な噂が、当の子供たちやその親の心をどれだけ深く傷つけるか想像してみて欲しい。悩んだ末に被災地に残って生活することを選んだ人たちにとって、外部の者から何も考えていないだの、放射能の危険に無頓着だの、子供の安全より自分の生活の安定を選んだだのと好き勝手なことを言われる苦しみ、怒りを想像して欲しい。
たとえ動機が善意であっても、無知による偏見で無意識に不当な差別を行い、現実に多くの人の心と身体(心理的ストレスは身体の健康に対しても直接的脅威である)を傷つけることは許されないはずだ。
原爆の被爆者とその子孫は直接的な障害に苦しみ、その上不当な差別のため更に苦しめられた。チェルノブイリ原発事故でも、放射線による直接的な影響を受けていない人の間で誤った情報、噂によって鬱または自暴自棄となり、アルコールや薬物依存によって結果的に健康を害する例が多数報告されている。
広島、長崎の原爆の時は放射線の健康影響について専門家の間ですらよく分かっていなかった。チェルノブイリ周辺の住民の多くは、学のない貧しい人々だったし、当時のソ連政府は住民の救済より国家の威信を重視する政府だった。
そのチェルノブイリ原発事故からも25年経ち、DNAやゲノムが発見され、医療分野でも放射線が積極的に利用されるようになり、放射線が人体に及ぼす影響への理解は飛躍的に高まった。ところが、教育レベルの高い日本ですら公衆レベルの理解は1960年代からほとんど進歩していない。
インターネットが普及し、どんな情報も簡単に手に入るようになった一方、玉石混淆の雑多な情報の中から正しい知識を得るのは却って難しくなったのかも知れない。古くて間違った情報が検証されることなく大量にコピーされ拡散すれば、数の上では優勢になり、正しい情報を駆逐してしまう。放射線による障害が子孫に遺伝するという遺伝的影響は冷戦時代の核実験最盛期には最重要の研究課題であった。100万匹のマウスを使った実験やカニクイザルを使った実験が行われ、同時期にDNAの働きが明らかになったこともあり遺伝的影響は無いことが確認された。ところが大気圏内核実験が行われなくなったこともあって世間は既に関心を失っており、知識が更新されることもなかったのだ。
やや話が逸れてしまったが、インターネットというメディアが存在感を持ってしまった現在、個人の何気ない噂話があっという間に拡散する可能性があることは意識すべきだろう。誰でも何らかの差別意識は持っているものだが、差別が問題となるのは差別意識が社会で共有されたときである。
人間は弱いものなので、普段は良識ある大人でも、危機に陥ったと思うと普段なら心の内に留めて口に出すことのない差別感情を顕わにしてしまいがちだ。原発事故のように東京電力や原子力安全・保安院という分かりやすいスケープゴートがあるときは尚更である。
仮に誰かに責任転嫁できたとしても、差別が対象者を精神的にも身体的にも傷つけ、それについて差別に荷担した者が免責されることはない。
東北の太平洋沿岸は津波で甚大な被害を受け、原発事故のために多くの地域が放射能で汚染された。ただし、現在人が住んでいるところは放射線による健康被害が出るようなレベルではないし、流通している食品などで健康被害が起きることもない。「汚染された」地域でも多くの人が普通に生活し、震災前の生活を取り戻そうと懸命に努力している。
「不安」は理屈ではないので、東北産の農畜産物がどうしても不安なら食べなければいいし、東北の人と付き合うのが怖ければ黙って避けていればいい。原子力発電に反対なら反対すればよい。声高に差別を煽って被災者を改めて痛めつける必要は何もないはずだ。

差別について」への1件のフィードバック

  1. N市民

    御高説、ごもっとも。
    ただ、一点 東北産だけでなく北関東も含まれます。
    市場価格は、震災前の約半分。
    風評被害ではなく、単なる差別。
    茨城県では、若者の農業への参入者が低下。
    以前は大量にきていた農業実習生(外人)も、今だに減少。

    ひどいものだ。

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