マラリアというと熱帯の病気というイメージだが、かつては日本はもちろん、ヨーロッパや北米でも土着マラリアがあったらしい。近代までに熱帯、亜熱帯以外ではほぼ撲滅されたが、太平洋戦争では双方の兵士の多くが罹患し、特にほとんど有効な対策を取っていなかった日本軍は多数の死者を出している。
現在では多くの日本人にとっては感染地域に旅行でもしない限り意識することすらなくなったマラリアだが、たろ父は正にその感染地域で働いていたので身近な病気だったのだ。
感染症のある地域に旅行する際にはそれぞれの地域に必要な予防接種を受けることになっていて、WHOが定めるそれらの予防接種を受けた証明としてイエローカードと呼ばれる黄色い表紙の国際予防接種証明書がないと入国できない場合もある。たろ父は同僚と一緒にデンマークで予防接種を受けたけど、種類が多いため1回では済ませず、2回に分けて接種した。確か、料金はかからなかったと思う。デンマークには就学ビザで滞在していたのだけど、かの国は一時滞在の外国人にも社会保障番号を発行してくれて、デンマーク国内のみならずEU内であればどこでも無料で医療サービスが受けられるのだ。イエローカードに記載された名前のスペルが間違っていたけど、そこは気にしない。
さて、マラリアについては実はワクチンは存在しない。治療薬はあって、一部は予防薬としても使えるのだが完全に予防できるものではない。たろ父のグループは、予防薬としてクロロキンを選んだ。モザンビークで一緒に働いた、ノルウェーで研修を受けた別のグループはファンシダールを使っていた。クロロキンが週1回の服用でいいのに対してファンシダールは毎日服用する必要があり、たろ父たちは管理が大変だと判断したのだ。クロロキンの副作用には精神に作用するものもあるということで、ノルウェーのグループからは「なるほど、だから君らは時々ちょっとおかしいんだね」みたいな嫌味を言われていた。確かにアクの強いメンツだったけど、それはお互い様である。
モザンビークでの任期は6ヶ月で、基本的に共同生活をする。複数のプロジェクトが集まっている場所だったのでその中にも診療所があったし、車で30分ほどかけて町に出ればヨーロッパ人医師のいる病院もあった。マラリアについては任期中にデンマーク組もノルウェー組もそれぞれ約半数が罹患し、多い人は3回も患っていた。通常3日ほど高熱と下痢、嘔吐に苦しむけど、治療を受ければすぐに回復し、1週間も引きずることはほとんどない。
実は、その程度の症状というのはマラリア以外でもいくらでもあって、多くの場合原因は分からないままなのだ。誰かが原因不明の腹痛で1週間寝込んでいるなんてのは珍しくも何ともないという状況では、原因がはっきりして重篤化しないことが分かっているマラリアはむしろ安心なくらいなのだ。実際に、診療所でマラリア検査を受けてきた同僚が「陽性だった」と言えば、掛ける言葉は「よかったね、3日寝てりゃ治るじゃん」となる。
同じ建設プロジェクトで仲の良かったデンマーク人なんて、「せっかくアフリカまで来たんだから1回くらいマラリアも経験しておきたい」なんて言うようなファンキーガイだから、本当にマラリアに罹って陽性の検査結果を貰ってきたときはそれはもう嬉しそうにニコニコしていた。アホだ。たろ父は、残念ながら…じゃなくて幸運なことに、任期中遂に1回も罹らなかった。
正しく治療すればそれほど危険のないマラリアだが、アフリカのサブサハラ、つまりサハラ砂漠以南の地域では現在も死亡原因のトップだ。体力のない子供、特に栄養状態が悪い場合は、罹患して治療しなければ低くない確率で死に至る。そして、現地の人のマラリアについての知識は何百年もこの病気と付き合ってきたとは思えないほど、本当に驚くほど足りていないし,間違っている。蚊が媒介する原虫感染症であることすら知らない人がほとんどなのだ。たろ父は早く日焼けしたくて敢えて直射日光の下を薄着でうろついていたりしていたのだが、よく現地のワーカーから「セニョール、そんなに日に当たるとマラリアになるよ」と注意されたものだ。ちなみに、過度の日焼けはとても危険なのでよい子はマネをしないように。
マラリア原虫はハマダラカの唾液腺にスポロゾイドの形で集まり、ハマダラカがヒトなどの脊椎動物から吸血する際に体内に入るらしい。脊椎動物では無性生殖、昆虫で有性生殖を行うということなので、実はヒトは終宿主ではなく中間宿主ということになる。どっちにしろ、マラリアを予防するには何よりもまず蚊に刺されないようにするしかない。日中ずっと長袖、長ズボンで過ごすというのは現実的じゃないけど、蚊が多くなるのは夕方以降なので日が落ちてからは長袖にするというだけでもかなりリスクを減らすことができる。防虫スプレーなども効果的だ。そして寝るときには蚊帳を使う。一般的な蚊帳は日本に昔あったような大きなものではなく、シングルベッド用の小さなものだ。1カ所でつり下げるタイプなので、そのままだと顔にネットが掛かってしまうため、プラスチック製のリングが入っているものが多い。Googleの画像検索でヒットしたのを貼っておく。
泊まりがけで旅行する時には蚊帳も持っていくことになってるのだが、このリングがとにかく邪魔になる。多少の不便を承知で、リングは持って行かない同僚も多かった。たろ父はルール違反なのだが、蚊帳自体を持って行かなかった。よい子はマネしないように。隣国マラウィに行く途中、マラウィ湖(モザンビークではニアサ湖と呼ぶ)の近くで一晩に顔だけで100カ所くらい刺された時はさすがにマラリアを覚悟したけど、結局大丈夫だった。いや、マラリアは大丈夫だったけど死ぬほど痒かったし、場合によるとショック症状の可能性もないわけじゃないのでくれぐれもマネをしないように。代表的な感染症については予防接種を受けているとは言え、全てを網羅しているわけじゃないのでずっとその地で生活している現地の人とは持っている免疫が違う。だから、現地の人が大丈夫だから自分も大丈夫と思い込むのは大きな勘違いなので、若い人はしょうもない冒険心で命を粗末にしないように。